小ボスの名前について

というか、小ボスが生まれたことによって、いちばん聞かれる、かつまず最初に聞かれることの第一位は、名前はなに?ということで、僕はそれに関していままでだれにも言わなかったのだけれど(ほんとごめんなさい)、なぜ僕たちは、小ボスの名前をだれにも言わなかったのか?ということについて、すこしだけ。


 いちばん多くの人にいちばん最初に聞かれるだけあって、やっぱり名前というものはとても大切なものなんだと思うし、子どもができてまず考えるべきことなんだろうと思う。実際に、僕たちにしたって、けっこうまえに小ボスにつけるべき名前を決めていたし、ボスとふたりでおなかのなかの小ボスに、その名前を呼びかけてさえもいた。


 しかしながら、小ボスが生まれて一週間が経って、小ボスにとっては、おなかが減ってミルクを飲ませてもらうことや、おしめを替えてもらうことのほうが、いまのところ、名前よりも大切なことであることはまちがいないし、僕たちにとっても、もし、現時点で名前が決まっていなかったとしても、それを考える余裕なんてあったもんじゃないと思う。名前よりも大切なことはほかにもいっぱいある。たとえば、抱くときの首に添える手の位置であったり、食後のげっぷであったり。


 それに、名前というものは、社会生活を営むうえで個人を識別する際の最初の記号であり、名前を与えられることによって――いささか大げさではあるけれど――その個人が人として社会に受け入れられるということを意味する。僕たち(すくなくとも僕として)は、小ボスをそういった社会――社会保険制度だとか保険の積み立てだとか、あるいはうんざりするような毎月のクレジットカードの請求書だとか――からは無縁の場所で、ミルクを飲み、泣きわめき、おしめを替えた直後になにくわぬ顔でうんこをするものとして、すこしのあいだだけでも生きて欲しいと思っていたからだし、僕たちの考える「生活」というもののちょっだけ上の位置で、ふわふわと漂っていてほしいと思っていたからでもあります。それは、もしかすると、「人々はひとつのものごとに対して、すぐに結論を下し、名前を付けようとする。でも、名付けられたものはすでに失われたものだろう?」という、アルベール・カミュがどこかで書いてたこの言葉、「名付けられたものはすでに失われたものだろう?」が、僕の頭のなかのどこかにあったからかもしれません。


 でも、けっきょくのところ、それは僕たちのエゴだし、あるいは、世間で言う親バカ的ななにかかもしれないけれど、とりあえず、今日、小ボスの名前を僕たちの両親に教えました。いや、実はいままで聞かれなかったんですよね。ほんとに。