小ボスの誕生――あるいは、もう孤独じゃない

 病院からの電話で起こされて、すぐ来るように言われて、もちろん急いで家を出たわけだけれど、普通ごみの日だったのでごみを出したり、雨が降っていたし、そのあとどうなるのかわからなかったので、自分の着替えを用意するくらいには冷静でした。シャワーをどう浴びたのか、歯もいつもどおりちゃんと磨いたのか、あるいは必要以上に磨きすぎたのかもわからないし、出るまえにすった煙草もまったく味がしなかったにもかかわらず。


 病院に着くと、ボスはもうすぐ出発するところといったところで、外はすこし雨が降ってるよとか、ここはやっぱりすこし暑いねとか、実はトイレに行きたいのだけれどいま行ってもかまわないだろうか?とか、すこし場違いかもしれないけれど、なるべくふつうの話をしてボスを見送り、もしかすると必要になるかもしれないと思って持ってきた本を読んで待つことにする。こういうとき、人はいったいどんな本を読むのだろう?僕が本棚から前日に選んだのは、ニック・ホーンビィの『ソング・ブック』。だって、こんなときに好きでもない作家の本なんてとてもじゃないけど読めないし、どうせ頭に入ってこないんだから、一度読んだことのある本が良い。しかも、この本は、ひとつひとつのチャプターが短く、さらに、字がデカい。だから、この本を僕は選んだのだけれど、いま思えばなにかが生まれる瞬間について書かれた――そのなにかは、もちろん音楽だ――本を読みながら、なにかが生まれる瞬間を待つというのは、とても適切でふさわしい態度であったんじゃないだろうか?いま思えば、だけど。


 ジェイ・ガイルズ・バンドのところを読んでいるときに突然声をかけられ(実のところ、やっぱり内容なんてまったくおぼえていない)、小ボスが僕の目のまえにやって来た。そのときの気持ちなんて、とても言葉で言えたもんじゃないし、僕は驚き、ちっちゃと思ったし、それを口にもした。ちっちゃ。そういうと、小ボスはけっこう大きな声で泣きだして、その声を聞いて、僕は小ボスを小ボスとして認識したのだと思う。小ボスの誕生。ほどなくしてボスも病室に帰ってきて、すごく可愛かったとか、泣き声が大きかったとかうれしそうに言っていたけれど、そのときはじめて、可愛いという単語が思い出された、小ボスに対して可愛いという形容詞が適用されるのだとはじめて発見したくらいで、そのときまで僕は小ボスに対して可愛いとか可愛くないとかの価値判断をまったくできなかったのだ、それくらい驚いたんだと、そのことにたいして僕はとても驚いてしまったのだけれど(たしかに泣き声は大きかった)、その点ボスはすごいね。入院して真っ先に食事のメニューを確認してただけのことはある。落ち着きがちがう。


 もちろん、小ボスが生まれたのだから、実家だとかそういうところにすぐさま連絡しないといけない。そんなこと僕にだってわかってる。けれども、僕はどこにも連絡したくなかった。ボス以外のだれとも話したくなかった。すくなくとももうすこしのあいだだけは――具体的に何分とは言えないにせよ――。そのことをボスに言うと、それはすごく良くわかると言って僕に同意してくれました。つまり、ふたりとも、この名伏しがたい特別な気持ちを、個人的な体験として自分のなかにとどめておきたい。だれかに話すことによって、それをほんのすこしであっても失いたくないと感じていたのかもしれない。だから、もしかすると、僕たちは僕たちのあいだだけですら話したくないと思っていたのかもしれない。たしかに話すことによってとてつもなく安心するし、互いにたたえあうことだってできる(もちろんたたえられるべきはボスと小ボスなのだけれど、僕だってすこしはほめてもらっても良いだろう?)かもしれないけれど、おたがいに「あの」気持ちを分かちあうことなんてできない。そう思っていたのかもしれない。


 かと思うと、しばらくして僕は食事をしに外に出たのだけれど、そのときに、街ゆく人や飲食店の店員さん、とにかくだれかれかまわず今日あったことを触れまわりたいと思ったし、なにかしらおかしなテンションだったなと思う。正直に言うけれど、さっき夕食の準備をしてるときに、アイズレー・ブラザーズの「ツウィスト・アンド・シャウト」がオーディオから流れてきたんだけど、僕はすこしだけ、家でひとりでいるにもかかわらず、小躍りしてしまった。恥ずかしい。


 さっきも書いたように、お昼すぎに食事をしに外に出ると、朝に降っていた雨もやみ、太陽も出ていた。ただ、それだけ。なにも、打ち上げ花火が無数に打ちあがったわけではないし、マリリン・モンローが歌を歌ってくれたわけでもない。雨がやみ、空が晴れた。そんなありふれたことにすら徴を見いだしてしまう、すべてに祝福されているように感じてしまうなんて、やっぱりちょっとふつうじゃない。小ボスの誕生にともなう一連の時間のなかのさまざまな瞬間に、いちいち泣きそうになってしまうなんてことは、ながいあいだ生きていてそうそうない。実際、泣いてはないけど――しかしながら、僕がここで「泣いていない」と書いたところで、だれがその真偽を確かめることができるんだろう?僕の言葉は真実だろうか?や、泣いてないけどね――。


 病室に戻って、ボスとぼつぼつと話し、ガラス戸越しに小ボスを眺め、夕暮れの街を家に帰る道すがら、突然僕をとらえたのは、もう、孤独じゃないという思いでした。なぜそんな言葉がどこからともなくわきあがってきたのかまったくわからないし、この言葉が正確に意味するところもわからない。それに、いままでだって僕は孤独だったわけじゃない。そして、僕はカート・ヴォネガットが特別好きなわけではない。でも、その3音節の言葉は僕からはなれずに、いまもまだ僕のなかに強くのこっています。僕はもう、孤独じゃない。



でも、正直な話、小ボスはちっさいおっさんだと思う。この写真では。